夜の空は紺青に薄く光っていた。
逆に地面は真っ暗で、さやさやと木々が鳴るのは聞こえるのに影しか見えない。空と地上の夜の色は決して混じり合うことなく、明確な境界線に分かたれたまま存在し続けていた。
だけどごろりと寝転がって空を仰いでいた私たちには、その境は見えない。私たちは見上げる空だけが世界になったかのような感覚に抱かれながら、鏤められた白銀の欠片に魅了されていた。
きらきら光るそれは、海の底の砂のように綺麗で、輝かしい景色のように目を奪う。いつまでもこうして見つめていられたら、と思う。
気がついたらぽつりと呟いていた。

「あの空の中を歩けたら、楽しいよね」
「空の中を?」

隣に寝転がった彼女は、空から視線を反らすことなく言葉だけ返してくる。
私も星を見たままで返した。

「そう。そしたらずっと星が近くに見えるよ」
「いいなあ、それ。楽しそう」
「でしょ?」
「でも、ずっと同じ景色だったら飽きちゃいそう」
「同じじゃないよ、星の並び方は違うもん」
「そんなの見てもすぐわからないよ」
「それじゃあ、星に色があればいいんだ」

赤い星、青い星、緑の星。
空を指さして言ってみたら、隣に寝転んだ彼女は、

「それなら、どんな色の星があるのか探すのが楽しそうだね」

と言っていた。

あの日の夜空の美しさも、交わしたこの会話も、その後も星空の下で他愛のない空想を膨らませ続けたことも。
どれもこれも、遠い日の大切な思い出。





【ともしびさがし】



ヘッドホンから流れる音楽に混じって、かちゃかちゃと何かが鳴った気がした。くるりと振り返ると、積み上げた本やら積み上がった荷物やらの合間から、机を片づける姉さんの姿が見えた。
それに気づいてヘッドホンを外す。作業に集中している間は世界と薄殻一枚隔てられているような感覚があったのだけれど、聴覚を封じていたものを外すだけで元の世界に引き戻される。

「珈琲飲まない?」
「飲む!」

私はレポート用紙とペンを投げ出して頷いた。
姉さんの淹れる珈琲は美味しい。珈琲にはうるさいといわれる私が認める、私的番付堂々の第一位が彼女の淹れたものだ。

「姉さんの珈琲、大好き!」
「ありがとう」

私は椅子から立ち上がって、机に積まれた本を代わりにそこに置いた。まだ机上に残る設計図やら走り書きやらはまとめて引き出しに突っ込む。とりあえず今は机が綺麗になればいいのだ。丁寧に片づけていたら折角のお茶が冷めてしまう。
席につくと姉さんが珈琲の入ったカップを前に置いてくれる。一緒に菓子の乗った小皿も並べられた。

「あ、これ何だっけ。ま、まく……?」
「マカロン」
「あ、そうそう」

いつだったか、これは遥か海の向こうにある国から入ってきた菓子だと姉さんが教えてくれた。
文明が発展した結果、人々は安全に海を渡り、大陸をも横断することが出来るようになった。結果、離れた土地の文化が混ざり合うことになって、新しい文化が各地で芽吹いた。
この菓子もその頃にこの国に入ってきたと言うから、菓子としての市民権を得て久しいのだろう。けれど私にとって、異なる文化圏から来たものの名前と言うのはどうにも覚えにくくて、忘れてしまうことがよくある。
二つ年上の緋桐姉さんは、私とは間逆で国外のことに詳しい。お菓子の名前は勿論、他のこともよく知っている。歴史や文化のことになると私の知る誰よりも詳しかった。よくそれだけ頭に入ってくるなあ、と、姉さんに異国の話を聞く度に思う。
向き不向き、と言うか興味の差なのだろう。
本人も、面白いから頭に入るのだと言っていた。因みに、姉さんは西の国々――マカロンの生まれた国の辺りがとりわけ好きで、その辺りの言語を齧っている。世界で一番汎用性がある、所謂世界共通語に加えて、別の国の言葉も一つくらいは話せると記憶している。
興味とはすごい力を持っている。興味があるだけで、ここまで打ち込むことが出来るのだ。

(それは私もか)

そう考えながら、鮮やかな緑色の菓子を摘んで一口齧る。途端に覚えのある味が舌の上に広がった。

「これは抹茶?」
「そう! うちの店の新商品なの」

今までに食べてきたのは、バニラクリームを使ったものが多かった。他には苺とかラズベリーとか、所謂ベリー系の果物や、柑橘類を使ったもの、チョコレートクリームを挟んだものも食べたことがある。
けれど抹茶は初めてだ。うちの国の食文化の代表と言える抹茶が、全く異なる系統の文化圏のものと合うとは意外だ。

「美味しい!」
「良かった」

姉さんは街のカフェでお菓子を作る仕事をしている。珈琲や紅茶に合うお菓子を作る他、飲み物を作ったりもしている。
カフェで作るのは洋菓子(ずっと西の方の国から来たお菓子のことを、私たちはそう呼んでいる)ばかりらしいけれど、姉さんは実際何でも作れる。和菓子(私たちの国のお菓子の呼び名だ)も作れるし、普通に料理も出来る。珈琲だけじゃなく、紅茶や緑茶も上手に淹れられるのが姉さんなのだ。

「ところで杉菜。作ってる奴はどうなの?」
「まずまずかなあ。組み立ててるとどうも動作がうまくいかなくなったりして」
「思考錯誤、ってところかあ」
「だね」

暗記とか語学とか料理とか、文理で分けるなら明らかに文系趣味の姉さんとは対照的なのが私だ。私の興味関心は、専ら機械の方に向かっていて、小さな頃から何かを組み立てたり作ったりするのが好きだった。
それは今も変わらなくて、学校でも機械工学を勉強した。そして大学付属の研究室で、あるものを作り続けている。
所属する研究室は昔からそれを研究している。完成の形は見えてきているけれど、技術的な壁がまだ幾つもある。
けれど、私が組み立てた理論なら、それを解決できるかもしれない。
教授も、同僚も、そこに希望をかけている。仲間だけじゃなく、姉さんも応援してくれている。
だから私は、理論を実践しなくては。あれを作り上げなければ。そう思うけれど、思うように進まないのがもどかしい。
焦っても駄目だよ、ゆっくりで大丈夫。毎日設計図やデータと向き合い、研究室に通いつめてばかりの私に、優しい姉さんはそう言ってくれる。
夜が遅い私のために珈琲も淹れてくれるし、朝は朝食を作っていてくれる。本当に完璧な人だ。
彼女の優しさに報いるためにも、私は夢を叶えければ。
珈琲を飲み終えて、菓子皿を空にすると、時計は十一時を指していた。テーブルがすっきり片付くと、私は元通り荷物を戻す。それに姉さんは苦笑しながらも、

「まだやるの?」

と訊ねてきた。

「うん、もうちょっと」
「ま、ほどほどにね」
「姉さんはもう寝るの?」
「んー、そうしようかな」
「わかった、お休み」

お休み、とひらひら手を振って、姉さんは部屋に戻っていく。階段を上って行く足音を聞きながら、私は作業に戻った。


×××


『展望台の家』
街の中心部から少し離れた高台に建つ私たちの家は、そう呼ばれている。
家、とは言われているが、実際には塔に近い細長い形状をしている。街で一番空に近い建物で、張りだしたテラスに登れば、晴れた夜には星が良く見える。
そして今、そのテラスには机が置かれていた。

「姉さん、これ出してどうするの?」

研究室に出すレポートをまとめて、私は少し前まで作業をしていた。実験用の装置を作っていたのだ。と言っても、配線の接続がうまくいかなかったりして煮詰まっていたところだったけれど。
そこに姉さんが「ちょっと手伝ってほしいことがあるの」と言ってきたので、作業を止めてテラスに出た。
頼まれたのは、テラスに調理用の鉄板を運び出すこと、それからテラスの出入口に積まれた荷物の中から、折りたたみ式の机と椅子を発掘することだった。

「焼き肉しようと思って」

これまた突然な。
そう思ったが、しかし納得できた。
姉さんは元々イベントごとが好きで、祭りやら市場やらがあると必ず私を誘う。だがそれだけでなく、時々突発的に企画を立てては私に声をかけるのだ。
企画、と言っても何もそれは特別なことではない。散歩に行こうとか、料理を作ろうとか、そういう話ばかりだ。朝起きて徐に菓子を作り始めて三時ごろに豪華なティータイムをしてみたりとか、そういった感じだ。

「それじゃあ晩御飯にしよっか」
「さんせーい」

姉さんの提案に賛同する。いつの間にかお腹がペコペコだ。そういえば昼ごはん、ちゃんと食べてないなあ。
そんなことを思いながら支度を手伝って、少し夜の部分が増した空の下で二人で焼き肉をした。

「日が長くなったね」
「もう夏だから」
「あ、あれ夏の大三角?」

空にひときわ眩く輝く星が三つ。指さすと、一緒に姉さんも空を仰ぎ見た。

「うん」
「懐かしいなー、子どもの頃よく見たよね」

星に関する知識は、昔私たちのお爺さんが教えてくれたことだった。
子どもの頃、お爺さんの家に二人でよく遊びに行って、星空を眺めては他愛のない話をした。お爺さんが住んでいたのは郊外地で、とても綺麗な星空が見えた。
お爺さんは天体が好きな人で、私たちに色々教えてくれた。そのおかげか、今でも私たち姉妹は天体が好きだ。
だからだろう、この街の学校に進学する時に、この古い貸家を選んだのは。古いからか家賃もアパートの部屋並みに安かった、と言うのもある。しかしそれよりも、街の中で一番綺麗に星が見える。それが私たちにとって決め手だった。

「ここもいつか見えづらくなっちゃうのかな」

私はぽつりと呟く。
大きな街は、技術が発展した結果空気が濁って空が見えづらくなった。郊外地はまた綺麗に見えるけれど、開発が進んで郊外地そのものも少なくなっていると聞く。
子どもの頃に見た、あの星空を失くしたくない。
あれは純粋に美しく、子ども心に感動した。やがて失われていくとしても、見えない場所があるとしても。私はあの星空を誰かに見てほしい。見えない人にも見てほしい。
だから私はあの装置を作り続けている。

「綺麗だものね、もったいないなあ」
「こんなに綺麗なのに、見たことないって人もいるらしいし」

技術発展は悪いものではないと思うけれど、その代償に自然の景色が見えなくなるというのはどうなのだろう。発展の恩恵を受けている身としてはその発展を全否定できないが、諸手を挙げて喜べない。

「でも、杉菜が今作ってるのが出来たら、何処に住んでる人でも見られるようになるね」
「勿論。その為にも完成させなきゃ!」

そうだ、私は完成させなくてはいけない。あの日の思い出を、この手で再現する機械。
遥か西で生まれた、映像をスクリーンに投影する技術。それを応用して、疑似的な星空を映し出す技術が大分前に考え出された。
そうして星空を映す空間をプラネタリウムと呼んでいるらしいが、この国にはまだない。
更に、西にあるとは言え美しい映像を映すことはまだ難しいと言う。
本物が見えなくなる前に、本物のように美しい映像を映し出せるプラネタリウムの投影機を作る。それが私の子どもの頃からの夢だった。
そのために、理論通りの数値を出して、技術を確立させる。それが当面の目標で、私は研究所でも家でもとにかく作業を続けていた。
さっきまではその作業も煮詰まっていたのだけれど、作業場を離れて外に出てきたおかげか、頭の中がすっきりした気がする。食後はまた作業に戻ろう。
投影機が完成するその日を思い浮かべながら空を眺めていたら、焦げた香りが鼻をついた。

「あ、焦げてる」

姉さんが慌てて鉄板から肉を摘みあげる。美味しそうに焼けた肉の片面だけが黒くなっていた。

「これじゃ苦いね」
「私は好きだよ」
「食べる?」

頷くと、姉さんが肉を皿に乗せてくれる。焦げすぎは体によくないが、たまにならいいだろう。

「でも緋桐姉さん、どうして今日外でご飯食べようと思ったの?」
「んー、杉菜が何か煮詰まってるみたいだったから、気分転換になればなーって」

姉さんはにこりと微笑む。

「ずっとぐるぐる考えててもしょうがないし。毎日起きて机に向かって寝て、じゃ疲れちゃうでしょ」

突発的に物事を始める時、大体姉さんはそういう。
確かに一定の日課を繰り返すだけだと、いくらすることがあると言っても飽きてくる。何か目的があってしている行為でも、延々とやっていたら作業化してしまうということはよくわかっている。
起きてするべきことをして眠る、決められた日課を繰り返す毎日。それに飽きないように、時には日課とは違うことをする。例えばいい天気だから散歩に行ってみるとか、普段作らない料理を作ってみるとか。
あらかじめ何か予定を決めることも、日々の単調化を防ぐのにいいと姉さんは言っていた。

「単調だと飽きちゃうでしょ? 飽きたらだれて、効率も悪くなっちゃう」
「そうだよね。すっごくわかる」
「でも最初から、明日はあれをしようとか、来週は出かけようとか、目標になる楽しいことを決めていたらそれに向かって頑張れると思うんだけど」
「確かに」
「そうやって世界に色を付けていけたら、頑張り続けられる気がするの」

『世界に色を付ける』
何か特別なことをしてみたり、予定を立ててみたり。そういった行動を、姉さんはこういう言い方で表現する。
曰く、単調なこととは味気ない色が続くようなことであり、変わったことをすることは味気ない日々に目立つ『色』を付けるなものらしい。
彼女のイメージだけれど、私はこの表現が好きだ。

「昔杉菜と話してたじゃない」

どこからそのイメージが来たのかと聞くと、姉さんは遠い目をして語ってくれた。

「小さい頃、杉菜とよく星を見てたでしょ。いつだったか、杉菜が言ったのよ。星の中を散歩出来たらいいなって」

二人で星を見た記憶はたくさんあるが、そんな話をしただろうか。言われるとしたような気がするが、言われてそう思い込んでいるだけかもしれない。

「それでね、私が『ずっと星の中を歩いてたら飽きちゃうよ』って言ったの」

星の中の散歩。天の川を泳ぐ、という感じだろうか。確かに周りをきらめく星に囲まれながら散歩が出来たら、何処までも綺麗な景色を見ていられて幸せだろう。
だけどいつまでも眺めていたら飽きが来る。

「そうしたら杉菜がね、言ったのよ。星に色があればいいって。私、妙に納得しちゃったわ」

だってたくさんの色の星を探しながら歩けたら、きっと楽しいと思うんだもの。
澄んだ天板を見上げながら、姉さんは幼い子どものように無邪気に笑った。



×××


研究室を出て、帰りがけに買い物をして家に帰ると、手紙が一通届いていた。
ブーツを脱ぎながら差出人を確認すると、緋桐、と言う名が見えた。姉さんからだ。
今、姉さんは外国にいる。海を渡って遥か西の国へ行った。
何でも、勤めていたカフェの店長さんの知り合いが海外にカフェを開くようで、その手伝いとして海を渡り、料理の修業をしてくるのだと言う。
姉さんは最初迷っていたが、私は「行ってきなよ」と笑って送った。
本音としては、姉さんは行きたいのだとわかっていたからだ。料理好きな姉さんは、前々から本場の料理に憧れていて、

「いつか本場で学べたらいいわねえ」

と言っていた。おっとりとした言い方だったけれど、あれが姉さんの夢なのだ。言葉も学んで、文化も学んで、現地に行きたくない筈がない。
一人で残されるのが寂しくないと言えば嘘だった。だけど、姉さんは私の夢を応援してくれた。今度は私が姉さんの夢を応援する番だ。
海を渡ってからも、姉さんはまめに手紙をくれた。何か特別なことがない限り、二週間に一回くらいのペースで手紙が送られてくる。

『杉菜、元気ですか?』

便箋に踊る懐かしい文字が嬉しい。遠く離れた場所にいる姉さんが近くに感じられる。

『お休みをいただいたので、アルラレール王国に来ています。私がいる国から汽車で行けるのよ。陸続きで他の国に行けるなんて、不思議な気分です』

外国の地理には詳しくないが、アルラレールと言うのは姉さんの行った国に近い国だったと思う。私たちの国は海にぽっかり浮かぶ島国だから、船で長旅をしないと外国に行けない。汽車だけで別の国に行けるという感覚は、多分国民の殆どが持っていないだろう。

『アルラレールは紅茶で有名な国です。色々な紅茶を飲んでみたけど、どれも美味しくて一番はなかなか決められません。旅の途中にお土産を買って送るから、楽しみに待ってて下さい』

姉さんの手紙は、いつも私の知らない国のことがたくさん書いてあって、読むだけで世界が広がる。それが楽しくて、姉さんの手紙が届くのをいつも楽しみに待っている。
それに、手紙は毎回次の手紙を心待ちにさせるような文面で終わる。旅行に行くのだったらお土産を贈るとか、今度何々をするからその話を手紙に書いて送るとか。相変わらず姉さんらしい。
届いた手紙を丁寧に折りたたんで封筒に戻す。
楽しみにしていた紅茶が届いたのは、それから一週間後だった。

×××



プラネタリウムを初めて知ったのは、子どもの頃だった。
天体に興味を持つ私たちを、お爺さんが子どもの集まりに連れて行ってくれた。大学で開かれた、子どものための理科教室のようなものだったと思う。
夜じゃなくても星が見られるんだって。そう言われて。すごくわくわくした。
その時に作ったのが、すごく簡単なプラネタリウムだった。光源に穴のあいた覆いをかぶせるだけの、本当に簡素なものだ。
その時に聞いた。遥か遠くの国では、これを機械で作って、部屋中を星空にできる技術があるのだと。
既にそれがあるのか、技術だけなのか、あの頃はわからなかった。けれど子ども心に感動して、それを作ろうと思ったのだ。
幸いにも機械いじりが好きだった私は、その日からプラネタリウムを作ることを目標にしてきた。私が大学に上がる少し前、今いる研究所が装置の研究を始めたことを聞いて、この街の大学を目指した。
そして研究所に入って、もうすぐ夢が形になるところまで来た。
あと少し、あと少しなのに。それがすごく遠くて、もどかしい。
子どもの頃の自分が記憶の中で笑っている。星が綺麗だと、きらきら笑っている。

(そう、私は夢を叶えたい)

子どもの私が笑う。小さな投影機から溢れる蝋燭の光を見て、瞳を輝かせている。

(だけど、まだなの)

問題を乗り越えるための技術確立は、まだ叶わない。それさえ出来れば。誰に意見を聞いても、助けを借りても、うまくできない。教授も一緒に考えてくれている。仲間も手を貸してくれる。なのに。

(あと、少し)


×××


郵便受けに何かが入る音で目が覚めた。
夢だったのか、転寝する直前の改装だったのか、判然としない。
眠い目を擦りながら私は郵便受けを覗いた。少し厚みのある封筒だ。差出人を見れば、姉さんだった。
家を出てから大分経つけれど、相変わらずまめに送ってきてくれる。
姉さんの手紙はいつも楽しそうだ。

『杉菜、元気ですか? こちらはもうすっかりクリスマス気分です』

クリスマスと言うのは向こうの祭りらしい。イベント好きな姉さんには楽しい季節だろう。
その後も、クリスマスの季節のお菓子についてや、大きな市が立つこと、楽しげな話が続いていく。

(ああ、姉さんらしいなあ)

楽しいことは目ざとく見つけ、心行くまで楽しんでしまう。なければ自分で作りだす。日常の細かなことすら楽しげに綴る姉さんの文字は、きっと美しいであろう異国の街並みすら目の前に浮かばせる。
きらきら輝くその場所で、姉さんはどんな成功を収めているだろう。
日常すら思い切り楽しんで、先へ先へと進む姉さん。
対して私はどうだろうか。どれほど研究室にこもったって、ちっとも前に進めやしない。

『オーナメントっていう飾るための飾りがとっても可愛いのよ。杉菜にも一つ贈ります』

手紙を出したあと、机の上に置いたままだった封筒を手に取る。ひっくり返すと木で出来た飾りが出てきた。切り絵の要領で描き出されているのは、大きな雪の結晶だ。

『クリスマス市が終わったら、どんなものだったか手紙に書くわね。そちらも寒くなってくるだろうけれど、身体には気を付けて』

いつも通り、次を期待させる言葉と私を案じる言葉で手紙は終わっていた。
読み終えるとそっと便箋を折り畳む。苦くて重たい、鉛のような、停滞した空気のような、言い表せない感情が胸の底に沈んでいく。澱んだ気持ちが息を詰まらせる。
(私は、どうして進まないの)
頑張っているのに。先に進みたいのに。いつまで待っても結果はやってこないし辿りつけない。

(緋桐姉さんは、あんなにも)

幸せそうなのに。眩しいのに。夢を叶えているのに。
なのにどうして。
姉さんが幸せなことは私にとっても嬉しい。だけど素直に喜べない。

しばらく悩んで、私は返事を書いた。
『姉さんも仕事忙しいでしょう? 私は大丈夫だから、手紙は書かなくていいよ。便りがないのがいい便りって言うじゃない。急ぎの用事があれば書いてください』

ああ、そんなの嘘だ。知っていた。
本当は私は眩しいくらいに輝いている姉さんを見たくなかった。ただ、それだけなんだ。



×××



転機が訪れたのは雪が解ける頃だった。
待ち望んだ偶然が訪れて、遂に理論通りの数値を出すことが出来たのだ。これまでただ文字で組み上げられただけだった論理が、実現された。
それを機に作業は驚くほどさくさくと進み始め、毎日研究室にこもっては機械を組み上げたり、調整をしたりと忙しくすごすのだった。

(多分、家にいるより研究所にいる方が長いなあ)

風呂上りに、薄暗い台所で牛乳を飲みながら、そんなことを思った。
食卓には本が積まれ、皿が一枚乗ればいいくらいのスペースしかない。最近ここで食事を取ることも少なくなった。
居間にだけ点った橙色の明かりが、本とレポート用紙に占領された部屋を照らす。
そう言えば、明日の実験の参考になりそうな本を探さなくては。今日、研究所でそう思ったことを思い出した。眠る前に思い出せてよかった。
私は空の牛乳瓶を流しに置き、本の山を崩しにかかった。
一冊一冊、署名を見ながらより分けていく。必要だと思うもの、これから必要だと思われるものは手元に残し、あとは別の場所に置く。
そうして山があった場所は空間が出来、代わりに別の場所に山が出来上がっていった。

「あれ?」

本ばかりだと思っていた山の中から、薄緑色の冊子が出てきた。それなりの厚さがあったが、しかし本にしては薄く、小さい。大分年季の入ったそれを開くと見慣れた文字が出てきた。私の日記だ。

(最近書いてなかったからなあ)

何処かに置いておいたのを、本とまとめて片付けてしまったのだろう。折角だからつけておこうとペンをとって、記録のない日々を思い出した。
(えーと、この日は研究室で……二週間続けて通ったなあ。この日は休みだったけどレポートまとめて、それからは……)

浮かんでくるのは、研究に打ち込んだ日々ばかり。一つこなせば次を、出来たならその次を。目標を目指して淡々と繰り返す。そんな毎日しか思い出せない。
いくら思い出しても同じような日しか思い出せなくて、私は日記をつけるのを諦めた。研究結果はレポートで出しているのだし、書いてもそのうち「今日は研究室に行った」くらいしか書けなくなりそうだったからだ。
代わりに、何だか懐かしい気持ちに駆られてページを戻した。
日記の基本は研究室に行って何をしたとか、小さな前進があったとか、そんな話だった。けれどその中に、良く姉さんの話が出てきた。
姉さんと一緒に市に行った。お菓子を作った。遠出をした。散歩に行った。そんな、他愛ない日常の一コマ。
だけど今の私には、とても懐かしいものに思えて、綴られた言葉を読むほどに心がふわりと軽くなっていくのを感じた。
繰り返すだけの日々にはない、光にも似た楽しさ。文体から、この頃の私がどれだけ楽しく日々を過ごしていたかがわかる。
今の毎日が嫌いなわけではない。やりたいことをやっているのだし、日々前進もしている。けれど繰り返し続けているとまるで作業のようになって、楽しさが少しずつなくなっていくのだ。
それは機械を組み立てている時もそうだった。完成図があって、そこを目指して作っているのに、何時間も螺子を巻いたり分解したり、繰り返しているとだんだん飽きてくるのだ。
それと同じ。毎日だって、そうなのだ。

ふと、姉さんの言葉が浮かんでくる。

『単調だと飽きちゃうでしょ?』

『だから世界に色をつけるの』

今なら、姉さんが言っていた意味がわかる。
そして、いつも私を誘ってくれたことの意味も。

(姉さんは、私の世界にも色をつけてくれたんだ)

散歩に行こうと言ってくれたことも。市に連れ出してくれたことも。
忙しい日に、休憩時間にお茶を淹れてくれたことだって。
そして、まめに手紙を書いてくれたことだって、姉さんがいないと研究しかしない私のためだったんだ。
いつも、次を期待させる終わり方だったのは、私に手紙を待たせるためだ。手紙が楽しみになってくれれば、そう思って姉さんは書いてくれていたのだろう。

(でも、私は、)

それに気付けなかった。今更気付いた。
そうしたら急に手紙が懐かしくなる。

(姉さん、ありがとう)

だけど、いつまでも姉さんに頼っていては駄目だ。
自分で気付いたのだから、自分で変えていかなければ。

(明日、久しぶりにカフェに行こう)

姉さんが働いていたカフェ。昔はよく行ったけれど、最近はご無沙汰していた。季節も変わったし、何か新商品が出ているだろう。
そして、姉さんに手紙を書こう。姉さんがしてくれていたように、小さな楽しみを探して手紙に綴ろう。
そっと窓の向こうを見やる。月のない空に、一つ違う色で輝く星があった。




×××



「この街も結構変わったね」
「でしょ? 姉さんがいない間に、カフェが改装したのよ」
「前より本場のカフェを意識したのよね? 想像は出来るけど、やっぱり見るのが楽しみだわ」
「それからね、駅前に、」
「百貨店、だっけ?」
「そう! 姉さんの好きそうなお菓子屋さんが入ってるのよ」
「送ってくれたクッキーのお店ね。あれ、とっても美味しかったわ」
「うん、知ってる。帰りに寄ろうよ。私のお勧めはアイスクリームかなあ」
「杉菜、前より街に詳しくなったね」
「そうかな?」
「うん。手紙にも、いっぱい書いてくれたじゃない。街であったこととか、変わったこととか、いっぱい教えてくれた」
「……それは、昔は姉さんがそうしてくれたから、私もそういう風に周りを気にしてみようかなって」
「そっか」
「姉さんがいなくなって気付いたの。『世界に色を付ける』、それって、大事なことだったんだって」
「それは、いい変化ね」
「うん、だと思う。お陰で、忙しくても気持ちが折れずに頑張れたよ」

ありがとう。

ずっと言いたかったことを、言おうと思ったことを口にして、私は足を止めた。
そこでは真新しい建物がまだくすみのない白い外壁を輝かせていた。
正面に置かれた、大きな天球儀の銅像にその名前が刻まれている。

『プラネタリウム』

あの頃、私が作りたいと望んだもの。姉さんに一番見せたかったもの。
それがこの場所。
この造られた天板の下で、私が、私たちが作り上げた装置は星を映している。

「私の夢――叶ったよ」

姉さんのお陰で歩き続けられたから。
心をおらずにいられたから。
だから、私の夢は今ここにある。

姉さんは今にも泣きそうなくらいに幸せそうな顔をして、「良かったね」「頑張ったね」と微笑んでくれた。
ずっと夢見ていた世界は、充足感に輝いていて、とてもとても綺麗だった。











 


風名さんのお誕生日プレゼントとして贈らせていただきました。
読めばわかると思いますが、杉菜と緋桐のいる国のイメージは日本です。建築や衣服、食文化的なところは明治や大正辺りのイメージです。文明開化というか、和風のものがメインで西洋的なものが珍しい感じ。
あくまでイメージ(雰囲気だけ)なので、実際の明治・大正期と全く一緒なわけじゃないです。
技術的には現代と同じくらいです。作中にヘッドホンとかありますし。プラネタリウムは世界的に高水準のものが出来上がっていないだけです。
プラネタリウムの歴史とかはフィクションです。
杉菜と緋桐の名前は花からとってます。花言葉中心で名前を付けました。
杉菜→向上心
緋桐→幸せになりなさい
緋桐の花言葉は、緋桐本人に向かってのメッセージではなくて、杉菜に向けてのメッセージ(緋桐がそう祈ってる)と言う解釈をして付けました。幸せを祈る人、みたいな感じですね。

10.10.23





〇 ありがとうございます 〇



風名の18歳のお祝いにいただいたお話です。
受験生ということで、
「受験勉強の合間に読んだら元気の出るお話」
という、
これまた自分勝手な我儘リクエストをさせていただきました。

一つのことを頑張るということが苦手な風名は、
正直勉強ばっかりだと、 うぬぬー ってなってまして←

小説をいただいてからは、細切れに、時間をみつけて読んでいたのですが、
どこを読んでも何度読んでも
元気が出ます!

杉菜ちゃんみたいに、
没頭して頑張って、
緋桐ちゃんみたいに、
ちゃんと気が配れるように、
煮詰まったりしないように気を付けながら……
とか、いろいろ考えたりも、しました。

温かい応援メッセージも添えてくださったんです!!
もう元気120倍です!
素敵なお話とお言葉、本当にありがとうございます

もう12月になりましたが、
頑張ろ。 ほんと頑張ろ!
同級のみんな、 一緒頑張ろうね!!


by風名 (2010.12.4)




 


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