どうしてだろう、初めて来るのに何処か懐かしい。踏み入った誰もにそう思わせるノスタルジックな雰囲気が、その部屋には流れていた。暖かな印象を与える木の床を大きな窓から注ぐ光が照らし、温もりを倍増させている。
まるで春の具現のような温もりに満ちた部屋の中央には、一台のピアノが置かれていた。
そのピアノは白かった。けれど新品ではないのだろう、僅かにくすんだ色をしていた。
けれど、裏返せばそれはピアノが長い時を経てきた証である。それは何も悪いものではないだろう。
時間を経た分だけ、ピアノはたくさんの人に、物語に出会い、彼らと共に記憶を刻んできたのだから。


やがて思い出は蘇る。記憶を抱えた旋律と共に。


【Memoiren】


連日雨天が続いていたけれど、今日の空は晴れ渡っている。澄んだ青空を背に降り注ぐのは花の雨だ。
春の終わりを告げるように花弁は風に舞う。けれど夏に向かっているとは言え気候は未だ春の名残が強く、暖かくて非常に過ごしやすい毎日だった。また、この気候の所為か人々の雰囲気も心持ち穏やかになる気がして、春は個人的には一番好きな季節だ。音楽を愛する僕としては、芸術の秋も捨てがたいのだけれどね。
今僕が居る部屋に流れる空気も、暖かくて穏やかだ。降り注ぐ光が時間感覚を鈍らせるからだろう、時間のない場所にいるようで自然と心に余裕が生まれてくる。一階の一番端にあるこの部屋は僕のお気に入りの場所なのさ。
僕はもう随分長く生きていると思うが、これまでこんなに居心地のいい場所を見つけたことはない。ああ、別にこれまでの場所が嫌いだったわけじゃないさ。ある時は熱心な音楽家に愛されて、ある時は子供たちに囲まれて、いつだって幸せだったさ。
けど、それでもここが好きなのは、特別な理由があるんだろうな。
おっと、僕の話ばかりしても面白くないね。だって君は、退屈だから物語を聞きたいんだろう?
僕自身の半生なんてたかが知れているから、君の退屈しのぎとしては五分と持たないな。
だから別の話をしよう。そうだな……唄えなくなった吟遊詩人と、感情に迷った歌姫、それから沈黙を愛したピアニストの物語を。

×××

「みんなー! 来て来てー!」
「お兄ちゃんがお話ししてくれるってー!」
楽しげな子どもたちの声。あの頃、僕はそれを毎日聞いていた。ここからもっと北の街にあった孤児院で働いていた頃の話さ。
広々とした一室に彼らはいつも集まって、思い思いに遊んでいたものだ。絵を描いたり、本を読んだり、ボードゲームをしたりね。
そしてある少年がやってくると、子どもたちは自分がやっていた遊びを投げ出して彼を取り囲んだ。彼――そうだね、ここではマドリガルと呼ぼうか。マドリガルは読書家で、また自分で言葉を紡ぐことを人一倍愛した少年だった。外で球技やら何やらに励む子どもと比べれば大人しかったけれど、内向的と言うほどではなかったな。
彼は幼い子どもたちに物語や詩を語ることが好きでね。いつもその部屋で自分の想像を語り聞かせてあげていた。子どもたちもそれを楽しみにしていたから、マドリガルがやってくると彼の周りに輪を作り、大声で仲間を呼んだんだ。マドリガルが来た、それを聞けば、外でボール遊びに夢中だった子どもでさえも駆けて来たよ。
「むかしむかし、あるところに……」
柔らかなアルトが紡ぐ物語を聞くのは、僕の密かな楽しみでもあった。

「あ、お兄ちゃん!」
「ねえねえ、お話してよ!」
それはある日のことだった。マドリガルが部屋の側を通りかかると、彼の姿を見つけた子どもたちは揃って物語をねだった。マドリガルが物語をしにやってくるのは毎日ではなく、二、三日姿を見せないのは珍しくなかった。物語、と簡単に言うけれど、芸術作品の一つには違いない。作品と名がつくものは、毎日ぽんぽんと作り続けられるものではないからね。
けれどこの時は、マドリガルが姿を現さなくなって十日近く経っていた。普段の彼を考えたなら、それは長い空白期間と言える。子どもたちも彼がやって来るのを待っていたんだ。
「今日はどんなお話ししてくれるの?」
目を輝かせて訊ねる子どもたちに囲まれて、マドリガルは困ったような顔をした。それからゆるゆると首を振って、
「……ごめんね、今日は出来ない。また今度、お話ししてあげるから」
そう告げると早足で行ってしまった。残された子どもたちはきょとんとして、互いに顔を見合わせるだけだった。

マドリガルが物語を止めてから程なくして、ちょっとした模様替えがあった。音楽室、と言う新しい部屋が出来てね。孤児院に唯一あったピアノがそこに運ばれた。それから楽譜とかそう言ったものが一緒に運び込まれ、音楽をやりたい子ども向けの部屋が一つ出来あがった。けど、元々ピアノやら何やらを積極的に演奏しようって子どもはいなかったな。だから音楽室は大抵静かだった。
けれど、そこに入り浸る唯一の子どもがいたことを僕は知っている。マドリガルさ。
彼は、恐らく孤児院の中で最も静かな場所に毎日やってきて、一心不乱に本のページを捲っていた。音楽室と銘打たれていたけど彼にとっては書斎だったようだね。
遠くに子どもたちの声を聞きながら、マドリガルはずっと本を読んでいた。


夏のある日のことだ。余所の孤児院からお客さんがやってきた。大人と数人の子どもたちだ。何でも余所の孤児院の子たちらしく、大人の用事のついでに連れてきたらしい。大人は大人で話し込んで、子どもは子ども同士遊んでいるみたいだった。そんな中、たった一人だけ音楽室にやってきた女の子がいた。
どうして彼女が他の子どもたちと遊ばなかったのかは、この時僕にはわからなかった。彼女と同じく余所から来た子たちは、元からいた子どもたちに受け入れられて楽しく遊んでいたのに。
彼女が入って来ても、マドリガルは本に没頭するあまり気付かなかった。あの時の彼はページを捲る行為すら無意識だったと思う。
少女もピアノの影にいるマドリガルに気付かずに、譜を広げてそれを弾き始めた。
風に乗って流れてくる旋律は、優しく、切なく、何処となく幻想的だった。何処か懐かしい―――そう、聞いていると子どもの頃を自然と思い出すようなメロディ。無邪気だった頃、夢中で捲っていた絵本のページの中にあった雰囲気と全く同じそれを持つ音色。
マドリガルは本を閉じて顔を上げた。無心に鍵盤を弾き続ける少女を見つめて、身じろぎひとつせず彼女が奏でる旋律に聞き入っていた。
魅入られた、とはまさにあのことだね。
マドリガルは文字通り全く動かなくて、まるで少女のピアノが時間を停めてしまったみたいだったのを今でも覚えているよ。
ピアノが止むと、彼は盛大な拍手をした。小さなピアニストを見つめる瞳はキラキラと輝いていた。眩しいくらいに輝くその目は、そう――物語を語って聞かせる時と、同じ光を宿していた。
少女は突然の拍手で、やっとマドリガルに気付いた。人形のように大きな目を更に大きくさせて、驚愕そのものと言った顔をしていた。そして暫し茫然としていたが、結局くるりと背を向けて足早に行ってしまった。
少女の姿が消えても、マドリガルはそこから動かなかった。ただ両目を輝かせて立ち尽くしていた。その表情はずっと探していた大切な何かを見つけた時のそれに違いなかった。
そう、彼の失くし物が返ってきたんだ。名も知らぬ少女が奏でた、懐かしいメロディによって。
マドリガルは棚を漁ると一冊のノートとペンを探し出し、無我夢中で何かを書き綴った。
インクで記された文字が連なり、紡がれていったのは物語。
少女の音楽が少年の想像力を呼び覚ました。そして想像をその手にとり返した吟遊詩人が取り戻した言葉。それらが文字になって紙の上に吐き出されて行った。


「―――むかしむかし、あるところに……」
ある晴れた日の午後、柔かなアルトが物語を語るのを聞いた。
それは何処か懐かしい、絵本のような物語だった。


×××


ファー付きのコートに子ども用のドレス。それが彼女の冬の正装で、僕の記憶にある彼女は殆どがその格好だった。というのも、僕は普段はあまり彼女に会わなかったからだ。
会うのはイベントごとの時が多かったから、彼女は大抵正装していた。それに彼女を見かけるのは音楽コンクールとかそういった時が一番多くて、そういうイベントごとは秋の終わりや冬に集中していたのもあるだろう。
孤児院は冬が近くなると屋内でも寒くなる。暖房もあったけれど、部屋を暖めきるには少しばかり力不足で、子ども達は皆屋内でも防寒具を身につけていた。だから彼女のイメージは、値段相応の柔らかさをしたファーがついたコートを羽織っている姿なんだ。
彼女――カノンと呼んでおこうか―――は、歌うことが何より好きだった。そして子ども達もカノンの歌が好きだった。姿は見えないけれど、何処からか彼女の歌声が聞こえるなんてこともよくあったな。綺麗で透明なソプラノは、水のように緩やかに優しく、心に滲み入ってきた。僕は天使に会ったことはないけれど、カノンの歌声は『天使の歌声』と形容してもよかったと思うね。讃美歌を歌えば言葉は何より神聖に聞こえたし、小夜曲を歌えば切ない気持ちを覚え、譚詩曲を歌えば何よりも美しい世界が見えた。気持ちがこもっている。まさにその通りの音楽だった。カノンが歌う全ての歌は、彼女の感情を言葉にしたものではないのか。楽曲は既存のものなのに、ついそう思ってしまうほど、彼女は自分の感情を言葉に乗せて響かせていたんだ。

カノンの歌が聞こえなくなったのは、いつかの夏だった。姿は見えずとも何処からか聞こえる歌を、僕はひそかに楽しみにしていたのに。あの時はとても寂しく思ったものだよ。
少ししてから、カノンが音楽教室に通いだしたことを子ども達の会話から知った。通うといっても、孤児院にそんなお金はある筈ないし、勿論まだ子どものカノンに自分で費用を出せる筈がない。
どうやら彼女の歌を聞いた教室の先生が直々に彼女を引き抜いたらしい。それは職員の会話を小耳に挟んで知った。
教室の先生に勧誘されるなんて、やはりカノンには歌の才能があるのだ。僕は嬉しく思っていたよ。それに、教室に通えば専門的な指導が受けられるし、何より好きなだけ歌える。彼女の大好きな歌が。
カノンの歌が聴けないのは寂しかったけれど、次に会う時はきっともっと素晴らしい歌になっているだろうと思うと、楽しみで仕方がなかった。

夏が過ぎて風が冷たくなり、木の葉が色を変え始めた頃。僕は久しぶりにカノンの姿を見た。けれどいつものような音楽会や何かがあったわけではない。特に何の変哲もないある日、僕は彼女を見かけた。音楽室の片隅で膝を抱えた、困り顔の歌姫を。

カノンは音楽室で何をするというわけではなかった。ただしゃがみこんで、楽譜を捲ったり、言葉を探すように口を開きかけては止めたりと言った行為をただ繰り返すばかりだった。
彼女は迷い、何かを探している。傍から見ていた僕にもそれくらいはわかったけれど、だからと言って何かしてはあげられなかった。
どんな時も、迷いを振り払う方法はただ一つ。迷ってしまった本人が答えを見つけるしかないのだ。

カノンは大抵午後にやってきていた。そして暫くそこにいるのだけれど、足音が近づいてくると姿を消してしまう。誰にも会いたくなかったんだろう。
音楽室に誰が来るのか? それは決まってるよ、マドリガルさ。
彼は詩を取り戻してからも、書斎代わりに部屋を使っていたんだ。彼の足音が近づいてくると、カノンは慌てて楽譜をしまい部屋を出て行った。

だけど遂にある日、二人は出会った。

マドリガルがドアを開けた時、カノンは棚に楽譜をしまおうとしているところだった。慌てていたのでうまく入らず手こずっていたんだよ。だからこの日、彼女はマドリガルに出会うことになった。
カノンは勿論、普段音楽室に人がいると思っていなかったマドリガルも驚いていた。数秒の空白の後、マドリガルは、
「ここを使ってもいい?」
急に問われたカノンは、何度も頷きながら、手にした楽譜をどうにかしまいこもうとしていた。早く何処かへ行きたかったんだろうな。だけどマドリガルが彼女の手にしたものを目敏く見つけ、更に問いを重ねた。
「君、ピアノも弾くの?」
「ピアノ……は弾かない。歌うのよ」
「僕、クリスマス会とかで歌ってる君のこと覚えてるよ。すごく上手で、綺麗で、僕は好きだな」
「……ありがとう」
カノンは伏し目がちに言った。短い言葉は嬉しさと悲しさの入り混じった、不思議な響きを持っていた。
「……じゃあ、私、行くから」
「? 君はここで歌ってたんじゃないの?」
自分が来た所為でカノンが出ていこうとしていると思ったのだろう。マドリガルがすまなそうに、
「ごめん、邪魔なら僕別のところに……」
「いいの。私、歌ってない。……歌え、ないもの」
最後の方は涙が落ちるように微かな言葉だった。細い指が楽譜をぎゅっと握りしめて、皺を刻んだ。指先に滲みだした感情が何だったのか、僕にも何となくわかる。そしてマドリガルも同じくわかったのだろう。彼は特別に声をかけたりせず、次の言葉を待った。
カノンだって、別にわざわざ話そうと思っていたわけではなかったのだろう。けれど思いがけず思いは言葉となって零れてしまった。一度溢れてしまった思いは、もう止められないものなのだ。
「……どうやって歌ったらいいか、もうわからないよ……」
そして彼女は訥々と語り始めた。僕らが彼女を見かけなかった夏の間の出来事を。
音楽教室に行ったこと。
そこでは兎に角技術ばかりが尊ばれたこと。
自分なりに歌を解釈することは出来ず、決められた解釈――――既に定義付けられた感情通りに歌うことが求められたこと。
そうして定義に絡めとられて――――気付いたら、歌詞を読んで、歌から何かを感じられなくなってしまったこと。
「私は……もう、わからない……。何であの曲を哀しいって思ってたんだろう。どうしてあの曲は歌ってて明るくなれたんだろう。もう、何を歌おうとしても、わからない……正解の通りに歌わなきゃって、思っちゃうよ……」
どんな物事にもマニュアルはあるし、基礎もある。だけどそれは一定の範囲内の話だ。それを超えれば――――特に芸術分野においては、個人の感性が物を言う。それまで自由に、マニュアルなんて知らずに歌っていたカノンは、今更学問的な音楽を知って、自由を失くしてしまった。言い換えれば、悪い意味で常識に囚われてしまった。
もうわからない。泣くように繰り返して、カノンは口を閉ざした。
マドリガルは何度か瞬きをして、それから窓辺に腰かけると、徐に本を開いて読み上げた。
少年の柔らかなアルトで詠われるのは、遥か過去に綴られて今なお愛される歌の詩。
「……? 何だろう、何だか、知ってるみたい……」
「多分知っているよ。この詩に曲をつけたものがある。君も歌っていたよ。ただ、冒頭部分はあんまり有名じゃないから知らないかもしれないけど」
「……名前、は?」
マドリガルが単語を一つ口にすると、カノンの瞳が大きくなった。心当たりがあったんだろうね。勿論僕もその曲は知っていたさ。そう言えばマドリガルの出会ったあの少女も、この曲を弾いていた。詩に起源を持つ、幻想的な曲さ。
再び詩が流れ出した時、カノンの目に宿る光は少し変わっていた。僅かな希望、否、希望になるかもわからないほど微かな光を見るように、アメジストの瞳が諦観と期待を孕んで揺れていた。
君は言葉がどれだけの力を持つか、知っているかい?
言葉とはそれ即ち『形』だ。概念を形にして伝えるための道具。本来、僕らが抱く感情だとか、そういったものはとても抽象的で、形がない。言葉はそれを伝える、唯一の手段なんだ。だけど本当は、抽象的なものは形がないからこそ完全なのであって、形を得たら代わりに褪せてしまう。
うん? わかりづらいって? そうだね……わかりよく、端的に言うのなら――感情は言葉では伝えきれないものだということだよ。
だからと言って言葉が果たして無力なのか? それも違うさ。確かに、胸の内に浮かぶ感情を完全に再現することは出来ない。けれどね、不完全な『コトバ』だって、想いをこめて語り続ければ、届くものなんだよ。形のないキモチを胸に秘めた誰かには、きっとね。
マドリガルの語る詩は、何も魔法の呪文じゃなかった。ただありふれた言葉の連続でしかなかった。それでも、幾百も、幾千も、重ね続けられれば強い力を持つ。
理論の檻に閉じ込められた歌姫の感情を、呼び起こすくらいには強い力を。
「…………、」
やがてカノンの唇が自然と開いた。それまでも楽譜を見ては何かを口にしようとしかけていたけれど、この時は違った。あの、何かを探すような覚束なさや躊躇い、焦りはなかった。純粋に、胸に湧き出る想いに突き動かされて自然とそうしていたんだ。
それでも、彼女の抱いた感情を的確に表す言葉はなかったんだろう。結局、彼女は一言で語ることを諦め、探るように訥々と言葉を吐きだしていった。抱えた想いを噛み砕き、バラバラのピースにしてから、もう一度それを繋ぎ合せて名前のない複雑な感情を表そうとしていたんだ。
「……綺麗で……泣きたいくらい、誰かを愛してる詩――――なのに、何でだろう、切なくて――苦い」
零れ落ちる想いの欠片に、それでいいのだと言わんばかりに微笑んで、マドリガルは朗読を続けた。奈落の底よりも深い慈愛を、剣山よりも鋭い悲哀を、少年のアルトが時に柔らかに、時に容赦なく歌い上げた。愛と哀が折り重なり波打つ詩のリズムは、聞き手の感情を突き動かし、そして言葉を引き出させる魔力を持っていた。
ふいに透明なソプラノが響いた。カノンの声だった。始めは糸のように細かったけれど、段々と確かな旋律に代わり、高く高く伸びていった。
歌われたのは美しい幻想曲。祈りと、愛と、郷愁を孕んだ歌。マドリガルが読んだ部分の続きからだった。
かつて詩人が綴った、焼かれそうなほど強い想いと、それゆえに引き裂かれそうなほど切ない祈りの歌に触れて目を覚ました『感情』は、人を突き動かすほどの衝動を持っていた。
だから歌姫は歌ったんだよ。論理なんかじゃ縛れない、言葉だけじゃ表わしきれない想いを、少しでも伝えたくて。


×××


それは冬が近くなった頃だった筈だ。ドルチェが孤児院にやってきたのは。
ドルチェ、というのは彼女の本名じゃない。ただ今はそう呼ぼう。

ドルチェは他の子どもとは少し違っていた。
ドルチェは喋れなかった……喋らなかったんだ。彼女の出身は遥か遠い北の国で、最初に孤児院に引き取られた時はこの国に来て日が浅かった。言語を解していたらしいご両親から習う予定だったそうだけど、そのご両親が亡くなられてしまったんだ。だから言葉が大してわからなかったんだね。
暫くこの国に住んでいたようだから、僕らのところへ来た時点で、言葉が全くわからないわけではなかったのだろう。でも彼女は喋ろうとしなかった。どうして話さないのか、誰も理由はわからない。医師は心理的なものではないかと言うけれど、一体何が彼女の言葉を閉ざしてしまったのだろうか。
元いた孤児院が閉鎖して僕らのところへ引き取られて来ても、やはり彼女は口を利こうとはしなかった。
子どもたちはただドルチェに言葉が殆ど通じない、そして話さないことも理解した。深い理由まではどうだか知らないけれども。
それでも彼らは一向に気にせず、あの手この手でコミュニケーションを取ろうと試みた。眩しいほどに純粋に、既に組み上がった孤児院内のコミュニティに彼女を入れてあげようとした。少しなら言葉がわかると言われ、なるべく簡単な言葉を選んで話しかけていた。
それでもドルチェはひたすら頭を振って、全ての誘いを断り続けた。

子どもたちが仲良く手を取り合って遊ぶ中、ドルチェはただ一人で彼らを見つめるだけだった。大人たちが幾ら心配しても決して仲間に加わろうとしなかった。
栗色の髪に大きな瞳、とても整った顔立ちのドルチェが無言で窓辺に佇んでいる姿は、まるで人形のようだった。
寂しくないのだろうか。退屈ではないのだろうか。
大人から子どもまで、誰もがドルチェを案じ、真剣に考えた。
彼女は何を望むのだろう。何をしたいのだろう。
語らぬ少女の心を誰ひとり推し量れないまま、数日が過ぎて行った。

ある時、音楽室に子どもがやってきた。
誰だったと思う? 音楽室を書斎代りにしていたマドリガル? それとも、彼と出会ってから度々姿を現して歌や談笑を楽しんでいたカノン?
やってきたのは二人のどちらでもない。ドルチェだった。
ワンピースの裾を揺らしてやってきた彼女は、少しの戸惑いを見せながらドアを開けた。恐る恐るといった風に一歩ずつピアノに歩み寄る彼女の姿は、見る人によっては見覚えがあっただろうね。
僕も最初はわからなかったけれど、後から思い出したよ。
ドルチェは以前ここに来た少女――マドリガルの傍でピアノを奏でていたあの少女なんだ。

さて、ドルチェの正体がわかれば、必然的に彼女が何しに来たかはわかるね?
椅子とピアノも薄く埃が積もっていたから、まずそれを払って、演奏の準備をした。椅子に座り直して、目の前に並ぶ鍵盤を恐る恐る押せば、ポン、と音色が一つ飛び出した。
聞き慣れた音に安心したのか、ドルチェは強張っていた表情を緩めて、ピアノを奏で始めた。紡がれる旋律はいつか何処かで聞いた覚えがあった。
考えてみれば至極当然なことだ。言葉を話せない――話さないドルチェがピアノに縋ることは。
人は一方的に刺激を受けるだけで生きていける生き物ではない。何らかの手段で感情を発散しなければならない。人は日常的に言葉を使ってそれを成す。話すことで抱えた感情を吐き出すのだ。
けれど話す手段を持たないドルチェはどうしたらいいのだろう。
答えは簡単だ。言葉以外の手段――音楽に頼るしかない。
音楽をただの音色の連続と思っちゃいけないよ。言葉のようにはっきりとした形はなく、聞き手に解釈を委ねるが故に無限の可能性を孕んでいる音楽は、それでも立派な表現の道具であり、伝達の手段なのだから。
秘められた感情は流れるメロディに溶けだし、静寂に伝播していった。風に乗って遠くへ流れ、誰かの元へ届いていたに違いない。形のない音色に混ざる感情を拾い上げられるかは聞き手次第ではあったけれどね。
聞き手の有無にかかわらず、音楽は鳴り続けた。誰に届いているのか、誰にも届いていないのか。
ドルチェ自身は誰かに届くことなど気にしていないかのように無表情で鍵盤を弾いていたが、僕にはとても気になった。顔にこそ出ないけれど、彼女の感情は旋律に現れていたからね。
表面上はただ綺麗で、静かで、切ないメロディ。けれど簡単な解釈の皮を剥がせば、内包された寂しさが顔を出した。否、寂しさだけじゃない。寂しさと、それから恐れだった。真新しい世界に向けて手を伸ばしたがっている、けれど怯えを振りきれない心が見えた。
ドルチェの音楽から何かを感じ取ったのは僕だけだったのか?
いやいや、そんなことはないさ。あそこには感受性豊かな子どもがたくさんいたんだよ。彼らが気付かないわけがない。さっき話しただろう? 音楽から、言葉から、何かを感じ取り、或いは訴えかけるだけの感性を持つ子どもたちのことを。
彼らは繊細な感情すら拾い上げる達人だったんだ。だから、ピアノの音色に誘われて、彼女――子ども用の赤いドレスを纏った少女、カノンは現れた。
ドアを開けた彼女は、鳴り響くピアノとその演奏者の存在に、最初は驚いて目を丸くしていた。ま、それはドルチェも同じだったけれどね。いきなりの来訪者に、奏でる手を止めてしまった。
カノンに咎められると思ったんだろうか、ドルチェは慌ててピアノを閉じようとした。マドリガルに見つかったカノンが楽譜をしまいこもうとしたのと同じだね。
「いいの、弾いてて」
咎める気なんてさらさらなかったカノンはそう言ったけれど、ドルチェは慌てながらもてきぱきと片付けて、逃げるように去ろうとしていた。
すると、透明なソプラノが部屋に響き渡った。
静寂を打ち砕き、切り裂くような、透明な響き。突然のことにドルチェは動きを止めて音源を見ていた。声の主は勿論カノンだった。
歌う言葉は僕らの街の言語で、ドルチェには半分も意味がわからなかっただろう。でも旋律は、先程まで彼女が奏でていたものと同じだった。ピアノ曲に歌詞をつけた歌をカノンは歌っていたんだ。それがかつてマドリガルが彼女に教えた――かつてドルチェがマドリガルの前で弾いた曲だった。だから聞き覚えがあったんだ。
マドリガルを、カノンを救い、ドルチェの元に人を呼び寄せたのがどれも同じ曲であったのは、果たしてただの偶然なのかな。僕個人としては、それすら彼らの縁であるように思うけれどね。
あっけにとられたドルチェをよそにカノンは歌い続けた。音楽を許容するように、ドルチェの音楽を肯定するように、ただ笑顔で。そして徐に片腕でピアノを示した。一緒に奏でましょう。言葉では届かないコトバを、確かにあの時彼女は語らぬ少女に伝えた。
曇りのない笑顔に、ドルチェはピアノのところに戻って――やっぱり恐る恐ると言った風だったけれど――再び弾き始めた。
部屋に満ちたのは二つの音楽。美しいピアノと透明なソプラノ。二つが絡み合い、一つになって静寂を崩した。
言葉なんてなくたって、わかりあうことは出来る。誰も届かなかったドルチェの心に、音楽を介してカノンが触れた時、僕は形のないコトバの存在を確信した。


×××


ライラックのドレスをふわふわ揺らして、次の日もドルチェはやって来た。この日は先にカノンがいて、彼女の姿を見たドルチェは音楽室に入るのを一瞬躊躇った。それでもカノンは微笑んだままピアノを示し、そこが彼女のいるべき場所だと無言で語った。
決して崩れない歌姫の笑顔はドルチェの躊躇いをゆるやかに溶かし、まだ恐る恐ると言った風ではあったが彼女は中に入ってピアノの前に座った。
鍵盤が姿を現せば、細い指がそれを弾き、音を繋げて音色に変えた。奏でられ始めたピアノ曲にあわせてカノンは隣で歌い始めた。
楽器と声、それぞれ質の違うソプラノが混ざり合った響きは何とも言えない美しさがあるものだよね。ピアノだけでは、歌い手だけでは、決して作り上げられない美しさ。子どもの演奏ではあったけれど、あの日の二人の音楽にはそれがあった。
そうして二人がそれぞれの方法で音楽を紡いでいると、まるでその旋律に引かれるようにして三人目の来客……マドリガルが現れた。
かつて音楽室で出会った音楽に、想像を取り戻した吟遊詩人の少年。
さっきも言ったけど、彼は相変わらず音楽室を書斎代わりにしていた。元々利用者なんて彼とカノンだけで、あとはイベント事の前後に人が出入りするくらいだったからね。カノンがいれば彼女の歌に耳を傾けて、いなければ本を読んで過ごしていた。
だからこの日も単に書斎代わりに使おうと来ただけだったのかもしれない。
でも僕は、マドリガルはドルチェの奏でるメロディーに引かれて来たと信じたいな。誰が弾いているかわからなくとも、かつて聞いたものによく似た何かを感じとっていたって可笑しくないだろう?
さて、やって来たマドリガルは中にいる二人を認めると、パッと顔を輝かせた。
カノンが歌い止めることはなかったが、マドリガルに笑みを向けて歓迎の意を示した。一方ドルチェは彼の来訪に驚いて、音を一つはずした。
マドリガルに向いていたカノンの視線がドルチェに移れば、彼女は慌てて鍵盤に意識を集中させた。
曲がすっかり演奏され終えると、マドリガルが惜しみない拍手を送った。彼は吟遊詩人的存在、文学を好む人であったけれど、芸術家と言う点においては音楽家と同じ。それ故に文学以外の芸術に対しても感受性豊かに受け止めることが可能なんだろうね。
向けられた称賛に対して、歌姫は「ありがとう」と微笑んだけれど、ピアニストは俯いて椅子の上で縮こまった。マドリガルはドルチェをじっと見て、「ねぇ」と声をかけた。
「もしかして、前にここでピアノ弾いてた子?」
「!」
言い当てられてドルチェは目を瞬かせた。それを肯定と受け取ったんだね、マドリガルはぱっと顔を輝かせて、「やっぱり」と手を打った。
「僕、前に聴いてからずっとまた聴きたかったんだ!」
彼がとても明るく言ったのは、ドルチェがここに来なければいけなかった理由を推し量って元気づけるつもりだったのだろう。単に明るいだけじゃなくて、意識して出した明るさも混ざっていたから。
ドルチェは彼の言葉をどう受け取ったのかな。瞬きを繰り返した後、また俯いてしまった。
マドリガルの方はそこで言葉の問題を思い出したんだろう。中空を見つめてなるべく簡単な言葉を選んで言いなおしたが、帰ってくるのは相変わらずの反応だった。
「良かったらもっと聴かせてくれる? 僕、君の音楽が好きなんだ」
幾ら沈黙が返ってきても、マドリガルは声をかけることを止めなかった。彼の目は、いつかドルチェが話してくれることを固く信じていた。

ドルチェの伴奏に合わせてカノンが歌い、マドリガルが聞きに来る。そんな日が何日も続いた。
すっかりそれが慣れっこになった頃だ。
カノンが音楽室に来てみると、物悲しい旋律が満ちていた。悲しく、切なく、冷たさの混ざる音色を奏でているのはドルチェだった。
音楽に宿る感情はただの悲哀ではなかった。深く深く、聴く者誰もに悲しみを想起させるそれは、弾き手自身の嘆きと共鳴して生まれるものだった。
「――悲しい、の?」
戸口に立ちつくしたカノンが、ふとそんなことを言った。
弾かれたようにドルチェが顔を上げて、それでメロディは止んだ。彼女は、どうしてわかったの? とでも言いたげな顔で戸口を見つめた。
「だって――泣いているみたいに、聞こえたから」
ねえ、何か悲しいの?
ドルチェの悲しみを自分のことのように悲しんで、カノンは問いかけた。悲しみを抱える張本人より彼女の方が今にも泣きそうだった。
「悲しいなら、辛いなら、教えて。私は、貴方を助けたい」
カノンはドルチェを案じる言葉を紡ぎ続けた。それでも沈黙が破れることはなかった。
「……話したく、ないこと?」
問いかけにドルチェは微かに首を振った。あんまりにも微かな動きだったから、もしかしたら見間違いかもしれないけどね。
どうして急に反応したのか。これは僕の推測だけど、ドルチェ自身としては話したかったんじゃないかな。でも、『話す』、つまり言葉を発する行為をしたくなかった――するのが怖かった。二つの本音がせめぎ合っていたからこその沈黙で、あの瞬間は『話したい』、その気持ちが勝ったんじゃないのかな。
そして、カノンも僕と同じ推測をしたのかもしれない。次に彼女はこう言った。
「……悲しいってことは、音楽を通してでもわかるわ。でもね……わかるのは、悲しいって気持ちだけ。本当のことは、言葉にしないとわからないよ」
音楽とか絵画とか、芸術は『感情』を感覚的に伝える手段としては優れている。でも人間にとっては、やっぱり形あるものを介さないと本当の理解は難しい。『言葉』と言う、明確な形で現すことに慣れてしまっているからね。言葉が感情を現しきるほど万能じゃないのは明白だけど、だからと言って形がなければ僕らは誤解を繰り返し、わかりあえないまま終わるだろう。
言葉は感情を伝えきれない。けれど、感情だけでは深い理解が得られない。どちらも万能なんかじゃないから、どちらかだけじゃダメなんだ。
「どんなことでもいいよ。私は貴方を助けたい。貴方の味方をしたい」
ダメ、かなぁ。
少し寂しげに一言付け加えて、ドルチェは口を噤んだ。重苦しい沈黙が部屋の下に溜まって行った。
「…………話し、たいよ」
今にも泣き出しそうなソプラノは、カノンのものではない。初めて聞くドルチェの声だった。
「本当は、話したい。でも、上手く話せない。私が話すと、失敗ばっかり。言いたいことも上手く言えないよ」
言葉がわからないが故に黙りがちになってしまった彼女は、思ってしまった。話さなければ傷つかない。沈黙の安全さを知ってしまった。それがいかに寂しいことであるかには気付かないまま。
そして言葉がわかるようになった頃には、自ら何かを発信する勇気の方を失くしていた。話したい、でも『話す』のは怖い。相反する本音が延々とせめぎあい続け、長い間話す気になれなかった。否――気付いたら、言葉が出てこなくなっていた。発しようとすれば全ての言葉が喉に張り付いて、結局沈黙は破れない。それがドルチェの沈黙の理由だった。
「本当はあの子とも話したい。嬉しかったの。ピアノ弾いて、あんなに褒めてもらえたのは初めてだったから。あんなに嬉しそうにしてもらえて、私も嬉しかった」
「そうね、褒めてもらえたら嬉しいよね」
「でもね、話したら、私のこと嫌いになっちゃうかもしれない。上手く話せないから。けどね、本当は――」
「――――話したいなら、話せばいいの」
ふわりと微笑んで、カノンはドルチェの目をまっすぐに見つめた。
「上手く話せなくてもいいじゃない。私だったら、話してくれるだけで嬉しいけどなぁ」
「……でも、」
未だ勇気が持てないドルチェの肩を、ポンと叩いて「大丈夫」とカノンは頷いて見せた。
「それに私にはこうやって話してくれるじゃない。こういう風に、他の子にも話せばいいの」
「だって、貴方は優しいから。失敗しても、怖がってても、笑って傍にいてくれたから。だから、話すのも大丈夫、な気がするの」
「じゃあ大丈夫ね! 少なくともここにいる子は優しいもの!」
優しい、はカノンの基準だったかもしれないけど、あながち嘘じゃなかった。だって、話さないドルチェを心配して、あれほどに構って、頭を悩ませていた子どもたちだからね。優しくないわけがないって僕は思うのさ。
「ね、話そう。私、貴方ともっと仲良くなりたいから」
「…………」
何処か遠く、何かへの期待を寄せた目をして、ドルチェが頷いた。今度は確かに、力強く。




ピアノが止むと、パチパチパチと拍手が部屋に響いた。
唯一の観客、かつて少女のピアノに魅了された少年は、至極幸せそうに瞳を輝かせていた。
そして弾き終えた少女もいつもより満足げな顔をしていて、歌わずに傍にいた歌姫の方は姉のような眼差しで二人を見守っていた。
「この曲、初めて会った時に弾いてた曲、だよね? 僕、この曲が一番好きなんだ。また弾いてくれてすごく嬉しいよ」
興奮してまとまらない言葉で、それでも少年が感想を述べれば、ピアニストの少女が初めて微笑んだ。
「――――ありがとう」

紡がれた簡単な一言。
でもそれは、彼女にとって大きな変化で、『伝える』勇気の証だった。


×××


詩で感情を呼び起こした吟遊詩人。
無限の優しさで恐怖を払った歌姫。
想像を人に与えたピアニスト。
連鎖的な縁で繋がれた三人の子どもたち、彼らの物語はこれでおしまい。
彼らのその後? それは勿論ハッピーエンドさ。
大人になった彼らは今も幸せに暮らしているよ。
ん? 彼らを知っている気がする?
そうだね、君は彼らに出会っている。間違いなく、ね。
おっと、誰か来たみたいだね。これは旦那様と奥様、それにお客人かな?
それじゃあ僕はまた静かにしているよ。
最後に、君、くれぐれも僕が――――ピアノが喋るなんて、口外しないでくれたまえよ?


×××


ドアが開け放たれると、三人の人間が中へ入ってくる。最初に入ってきた女性は、部屋の中央に置かれた白いピアノを見ると表情を変えた。それは長らく会っていなかった旧友に再会した時のそれに近い。
「あのピアノ――懐かしいわね」
感嘆の溜め息と共に女性は振り返り、自分をここへ案内した人たちを見た。翡翠の瞳に浮かんでいるのは郷愁と回顧の念。そして彼女の後ろにいる一組の男女も、同じ時代を思い出しているようだった。
「不要になってるって聞いてね。譲り受けたの」
「ドロテーアがよく弾いてたわよね」
客人は栗色の髪の女性に目を向ける。ドロテーアは目を細めて、
「ええ。クラウディアと初めて会ったのも、ピアノを弾きに来た時だった」
「私たちが仲良くなれたのも、音楽が――ピアノがあったからよね」
巡り合わせに感謝しなきゃね、とクラウディアは自分たちの縁を見守ってくれたピアノをそっと撫でた。
「それに、二人が出会えたのもピアノのお陰だし。ね、マリオン?」
ここで彼女は会話に参加していなかった三人目に話を振った。いきなり会話の輪に加えられた男性は、「……そうだな」と答え、一瞬だけ隣を見た。
「でも、出会えただけじゃそれっきりだったわ。今の私たちがあるのは、クラウディアが私を変えてくれたからよ」
「変わったのはドロテーアがそうしたいと願ったからよ。私は背中を押しただけ。感謝しなきゃと言えば、今の私があるのはマリオンのお陰ね」
「それなら今の僕がいるのはドロテーアのお陰さ」
それからマリオンはゆっくりと感慨深く言葉を吐き出した。
「……僕らはそれぞれを変えて、それぞれを支えた。僕らが出会えたことは、僕らの誰にとっても幸せなことだったんだな」
「そうね――――」
クラウディアは呟いて、記憶の断片を繋ぎ合せ、遠い過去の光景を再生した。
笑いあう三人の子どもたち。でもそれは、もう遠い過去の姿だ。
幼い歌姫はもう舞台には立たず、子どもたちに歌う楽しさを伝える道を選んだ。吟遊詩人とピアニストは結婚して東の街に孤児院を開いた。
思えばあの頃はとても幼くて、不器用で――だけど優しい日々だった。
ピアノの音色に救われたマリオン。
詩的な言葉に救われたクラウディア。
優しい味方に救われたドロテーア。
音楽と言葉で心を結んだ記憶は、彼らの一生の宝物。
そして、今の彼らを形作る大切な記憶。
「ねぇドロテーア、折角だからピアノ聴かせてよ!」
「え? ええ、いいわよ」
客人の依頼に、ドロテーアはピアノの前に座った。
「でも何を弾けばいいの?」
「そうね――あの曲がいいわ」
やがて旋律が流れ始める。
それはドロテーアのお気に入りで、ことあるごとに弾いていた曲。そして彼らの過去であり縁そのもの。
かつてドロテーアが弾き、マリオンに『想像』を返し、
かつてマリオンが語り、クラウディアに『感情』を返し、
かつてクラウディアが歌い、ドロテーアに『信頼』を返した、
あの、幻想的な曲だった。

嬉しい時、寂しい時、悲しい時、楽しい時。共に聴いた音楽には、思い出ばかりが詰められている。
共に過ごした時間。共に刻んだ記憶。全てを乗せてメロディは流れる。
手を差し伸べあった子どもたちの物語を、語り継ぐように。




譜面台で楽譜が揺れる。記されたそのタイトルは、
――――思い出、を意味する言葉だった。


(それは時を紡ぐように語られて)

(それは時を渡るように語られる)

(たくさんの記憶が刻まれた、たった一つのモノガタリ)
























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相互リンクをして下さっている「夕焼けの街」様の三周年記念に書かせて頂きました。
お題は「ピアノ」とのことで、ピアノの回想録という形になりました。他に「3」に引っかけられたらと管理人様方が仰ってましたが、そちらは人数のみに関係している感じです……。
ピアノが語る物語中で出した仮名(ドルチェ・マドリガル・カノン)は全て音楽用語です。
最後の方で少し出た実名の方は特に深い意味がありません。西洋での一般的な名前を目指してみました。
一応、仮名と実名の両方をアルファベット表記した時に頭文字が同じになるようになってます。ここただの自己満足ですが。
タイトルの『Memoiren』はドイツ語で『回想録』または『メモワール(思い出)』。無冠詞で使ってます。

風名様、あーぽん様、「夕焼けの街」三周年本当におめでとうございます!

09.11.30








〇 ありがとうございますっ 〇



大好きな空先輩から、サイトの方への誕生日記念を頂きました。
音楽に関連した仕組みも隠れてるんですよ!
(私は、教えていただくまで気づかなかったのですが…;;)
探してみてくださいね

音楽と詩と。
私は、このお話の三人みたいな才能を持ってる訳ではありませんが
それでも 救われることがあって。
音や言葉で 自分の気持ちを表そうと、一生懸命になって。
そんな日々を送ってるから…
… やっぱり いいなって、 思いました。
音楽も。 言葉も。

感動…という表現はあまりにベタで素っ気無いのですが、
心の温まるお話を 本当にありがとうございました。



by 風名 (2009.12.6)


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