幻は
信じなくても存在します
++幻影ストライク++
「お兄ちゃんの馬鹿っ!!」
声に出して叫んでみても、 誰一人気にしてくれる人はいない。
所詮、その程度の人間なのだ。
親戚は、楓葉の家族は、その‘兄’一人だけなのだから。
心から心配してくれる人も、兄とその友達だけ。
だから、今兄の所を飛び出してきたばかりなのだから、他に当てがある訳が無くて。
「あーぁ。」
小さく溜息をつく。
とりあえず、公園のベンチまでやって来たもののやる事がない。
先刻雪夜と座っていたベンチに、今度は独りで座る。
寂しい、とは思わなかった。
兄の帰りが遅い夜だっていつも独りでご飯を食べてきた。
辺りが明るい分、まだましだ。
楓葉は怒っている…つもりだった。
兄のあの態度に。
何も説明してくれない、その姿勢に。
けれど、怒りより先に、寂しさが来てしまう。
自分が悪かった、と そう思ってしまう。
とりあえずは、 今の状況について冷静に考えてみよう、と思った。
兄に、正論をぶつける為にも・・・。
そういえば、喧嘩って初めてだなぁ。
ぼんやりとそんな考えが浮かんだ。
「駄目だよ。ちゃんと冷静になって。」
自分で自分を戒める。
まずは、あの散乱していた布のことだ。
空を睨みながら思考する。
雑巾ではないだろう。それは確実だ。
しかし、だからと言って家庭科の宿題という訳でも 無さそうだった。
あんなに沢山、何に利用したと言うのだろう。
そしてもう一つ、考えるべきことがある。
兄・・・桜満が 刀を握っていた理由だ。
兄だけじゃない。
由美は両手に短剣を、そして 紅赤でさえも サバイバルナイフを握っていた。
何故、そんな物騒な物を。
何かがあったことは確かだ。
喧嘩、だろうか。
けれど、雪夜と楓葉が家の戸を開けたときには 由美も紅赤もにこにこと笑っていた。
・・・仲間割れという線は無さそうなのに・・・。
兄の言葉が甦る。
―― この攻撃を仕掛けた時点で、俺は終わってんだよ。
いつもの、感情の篭らない・・・強いて言うなら 気怠そうな口調で発されたあの言葉には、 どんな意味があるのだろう。
誰に、攻撃を仕掛けたというのだろう。
人と争うことが嫌いな兄が・・・。
誰か、悪い人がいるのだろうか。
兄はこうも言った。
―― 知らない方が良い。
楓葉が 幾ら好奇心旺盛なところで 兄の言っている意味くらい理解できる。
そして、首を突っ込まない方が幸せだ、という事にも共感できた。
知らぬが仏という言葉がある。
知らなければ 巻き込まれないのだ。
だから、これまで踏み込まなかった。
兄の気持ちが分かるから。
桜満の考えが分かるから。
しかし、 もう限界だ。
知りたい。
皆が戦おうとする相手を。
兄が刀を持ち歩いている理由を。
「あの惨状見せて 知らん振りしろ、なんてさぁ 。」
幾ら何でも無理がある。
―― でも。
「お兄ちゃん元気になってたよね。」
未だ苛ついてはいたものの、その事実だけで楓葉は笑顔になってしまう。
優しい兄の疲労を知っていたから・・・ いろんな意味で。
幼い頃、 母に言われたことがある。
―― もし桜満に黒い印が見えたら、それは 疲れている証拠なの。
だからその時は、 しっかり力になってあげてね。
―― 黒い印?
―― そう、貴女にしか見えない痣みたいな印よ。
言われた時は、信じていなかった。
信じられる筈が無い。
透視能力とか 魔法とか、 そんなものがこの世界にある筈ないのだから。
楓葉にとって母という存在は決して小さくなかったが それ以上に兄のことが大好きだった。
そして、兄が何よりも空想科学(ファンタジー)を嫌う事も知っていた。
兄はいつも言っていたのだ。
「物語なんて、 所詮作り物だよ。」
と。
兄の卑下する物語の登場人物になんてなりたくなかった。
そして実際、家族全員で暮らしている時には そんな印は見当たらなかった。
あの頃は平和だった、と思う。
暮らしが楽なのは断然今だし 少なくとも楓葉は未だ戦いに巻き込まれている訳ではないのだけれど。
それでも 四人の暮らしは 貧しくたって 平和だった。
忘れかけていたその印のことを思い出したのは、此処に引っ越してきた時だった。
小学校より一日早く始まった中学校から帰ってきた桜満の腕に、真っ黒な星が浮かんでいるのを 楓葉は見つけてしまったのだ。
「お兄ちゃん。 どうしたの?その痣。」
「・・・痣? そんなもの作ってないけど。」
疲れた顔を不思議そうに傾けて、 それでも軽く笑顔を作りながら兄は言った。
「あ、何でもない。」
その、優しさの滲み出るような笑みに答えながら 楓葉は母の言葉を思い出したのだ。
―― そう、貴女にしか見えない痣みたいな印。
楓葉は、背筋がぞっとするのを感じた。
その時から…
少しずつ 桜満の印は増えていった。
言葉で説明するのは難しいが、 目とは別の器官 … つまり 六感目の何かしらの器官が、その印を認識しているようなのだ。
だんだん 黒く‘見えて’くる兄が嫌で、 帰宅時間をわざわざ遅くしたりもした。
どうすれば良いのか分からない。けれど‘他の人には見えない模様が見える’なんて誰にも相談できない。
張り裂けそうな思いを胸に それでも楓葉は 兄の前で笑い続けていた。
始めは印を数えて嘆いていたものの、 そのうちそれも止めた。
もし痣の原因が疲れならば、休みさえすれば治るのかもしれない、
と それだけを信じることしか出来なかった。
そうして、6年目。
漸く最近になって、兄は回復して来ていた。
きっかけは、 紅赤。
何があったのかは分からない。
けれど 紅赤が家に来た日、その印は半分に減った。
もう、 真っ黒になっていた桜満の姿が、 シマウマ程度になっていた。
普通の肌色が‘見え’隠れしていた。
それだけで、とても嬉しくて。
無駄にハイテンションで過ごしていたら、兄に苦笑いをされた。
何が起こったのだろう。
それをもう一度繰り返せば、更に兄を回復させられるかもしれない。
いろいろな事を問いかけた。
けれど、探りを入れても、兄からは何も分からなかった。
今日、までは。
―― 私は所詮 何も出来ないんだよな。
小さく、小さく呟く。
そう、楓葉が方法を見つけるまでも無く、
先程家に居たのは、
何年ぶりだろう
傷一つ無い夢狩桜満だったのだ。
「そんなことないぜ。」
と、後ろから 呼ばれる筈の無い名前が呼ばれる。
驚いて振り返った楓葉は そのまま大きく目を見開いた。
少し茶色がかった髪と目に、細くスラリとした長身。
それは紛れも無く、屈託無く笑う――そんな笑顔を見たのは 初めてかもしれないが――夢狩桜満だった。
「・・・お兄ちゃん。」
零れかけていた涙を素早く拭く。
「雪夜先輩には、ほっとけって言われたんだけどな。」
―― なんか言い過ぎたし。
と、 桜満は照れくさそうに頭を掻いた。
そんな兄を見ただけで、 何故か怒りが消えていく。
・・・ 本当に お兄ちゃんのこと好きなんだ。
自覚する。
兄に対して怒る、なんてこと楓葉には出来ないのだ。
「良いんだ。 勝手に怒ってるだけだから。」
半分強がって、半分本気で言ってみる。
自然と口元が緩むのを感じた。
「…それなら、良いけどさ。
ほんとごめんな。 いろいろ黙ってて。」
素直な兄には少し違和感を感じるけれど、そこに流れるのは嫌な空気ではなかった。
「それはお互い様でしょ?」
小悪魔っぽく言ってみる。
ハハハ と、桜満は笑った。
「… お互いに隠し切ってるつもりが両方ともばれてるんだもんな。」
心臓が一瞬飛び上がる。
兄の何気ない一言は、それ程楓葉を驚かせた。
「・・・・・・。」
『お互いに』
という言葉。
それは、兄が楓葉が『何か』を隠していることに気がついている、ということだ。
あれ程、 態度に示さないようにしていたのに。
あんなに、気を遣って笑っていたのに。
黒い印が見えることを『隠していた』事実が ばれているのだろうか?
ありえない、と思う。
楓葉から兄への勘付きはそう難しいことじゃない。
兄は刀を必要としていたからだ。
しかし楓葉の、その‘秘密’は外見で分かるものじゃない。分かる筈が無い。
それでも。
この台詞はハッタリで発された訳ではないだろう。
残念だな、 と思う。
空想(ファンタジー)性は 兄の大嫌いな物語だから
出来ることならこのまま隠しておきたかったのに。
「まぁ 其処は兄妹ってことで 水に流そうぜ。隠し事なんてあんまりよくないさ。」
しかし、楓葉の心の中の呟きに答えるように 兄はあっさりと言った。
「物語の続きには、先輩たちにも参加してもらう。
お前も登場人物やってくれるんだよな? 思いっきりありえねぇ話だから、お前も好きだろう?」
全部・・ 読まれている?
楓葉は思わず息を呑んだ。
兄の特殊能力に、読心術は入っていなかった筈だが。
身動き出来なかった。
それ程に頭をフル稼働させたのに、それでも何も理解できない。
―― ありえない話の登場人物?
… それは確かに 楓葉にとっては適材適所と言うものだが。 しかし。
兄は熱でもあるのだろうか?
あの ファンタジーが大嫌いな兄が、こんなことを言うなんて。
「行こうか。みんな待ってるぜ。」
固まった楓葉に、桜満が言う。
本当に楽しそうに。
無邪気な笑みを浮かべて。
「早くやんねぇと・・・俺は楽しみは先にやっつけちゃうタイプだしな。」
軽口だった。
しかも、上辺だけでなく 本当に楽しそうな笑顔を添えた・・・
その表情を見た途端、魔法が解けた様に固まった身体が解れた。
―― 今大事なのは、理解じゃない。
頭の中の何かが、 楓葉に話しかけていた。
―― 受け入れ…られるよね? 時間がないんだから。
そう、 状況は先程と何も変わっていないのだ。
兄は何かをやらかしていて、 そして何者かによって 命を狙われる・・・らしい。
大好きな兄が 殺される。
それは何としても防がなければ。
絶対に防がなければ・・・。
「うん。行こう!!」
少し前で振り向いている 背の高い青年に向かって言う。
そして続けて心の中で呟いた。
お兄ちゃん。 大好きだよ。